トップ > 井月について > 井上井月(せいげつ)とは?

井月について

井上井月(せいげつ)とは?

 幕末から明治中頃、現在の伊那から宮田・駒ヶ根・四徳に至る地域を漂泊した井上井月という俳人がいました。 彼は明治二十年伊那の美篶で六十六歳の生涯を閉じるまでの約三十年間をこの伊那谷から出ることなく、家庭も住まい・財産も持たずひたすら俳諧に生きたのです。そして一七〇〇余の句や優れた書を残しました。
 井月は文政五年(一八二二年)、越後の長岡藩生まれと推測されている。少年期から三十代半ばまでの行状は全く不明である。安政五年(一八五八年)ごろ、三 十代後半の壮年であった井月は伊那谷を訪れる。この地に、多少好学の風があり、風流風雅を嗜む傾きのある土地であったため俳諧の師匠として井月は伊那谷の 人士に歓迎された。こうして井月は伊那谷の趣味人たちに発句の手ほどきをしたり、連句の席を持ったり、詩文を揮毫する見返りとして、食事や宿などの接待を 受けつつ漂泊した。
 井月は典型的な酒仙の面影が髣髴とするほどの酒好きであった。当時の伊那谷は養蚕が盛んで経済的にも幾らか余裕が あり、人の顔さえ見れば酒を勧める悠長な土地柄であったので、ほとんど金銭を持たず蓄えも無かった井月にとって、いつでも酒食の相伴にあずかることの出来 る魅力的な土地であった。体中虱だらけで、直ぐに泥酔しては寝小便をたれるという井月を、土地の女性や子供たちは「乞食井月」と呼んで忌避したが、俳句を 趣味とする富裕層の男性たちが井月を優遇し、中には弟子として師事するものもいた。
 井月は独特な語彙をよく用いているが、口癖として もっとも著名なのが「千両、千両」である。謝辞、賞賛詞、賀詞、感嘆詞として使用するは勿論、こんにちは、さようならの挨拶まで、唯この千両千両をもって 済ますという。饗応の際に相好を崩して「千両千両」と繰り返したという逸話が、数多く言い伝えられている。井月の酒好きは当時、伊那谷一帯に知れ渡ってお り、酒にまつわる句も多く残されている。
 また、ここの人々は、俳句作品ばかりでなく、井月の墨書、筆跡も珍重していた。「芭蕉に似た 趣のあるばかりでか、光悦などのある特殊な作をさえ偲ばせる高雅な書品」(下島勲の評)。特に井月は松尾芭蕉の『幻住庵記』(約一三〇〇字)を暗記してお り、ある紺屋の店先で、酒を飲みながら唐紙四枚に何の手本も無く、千字以上をしたためたという。この『幻住庵記』の筆跡を見た芥川龍之介は「入神と称する をも妨げない」と絶賛した。
 井月は自身の句集は残さなかったが、伊那谷の各地に発句の書き付けを残していた。駒ヶ根市中沢出身の医師 であり、自らも年少時に井月を見知っていた下島勲(俳号・空谷)は、井月作品の収集を思い立ち、駒ヶ根に居住していた実弟の下島五山に調査を依頼。そして 大正一〇年(一九二一年)『井月の句集』を出版する。本書の巻頭には、高浜虚子から贈られた「丈高き男なりけん木枯らしに」の一句が添えられている。この 句が松尾芭蕉『野ざらし紀行』の発句「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」を踏まえている点から、虚子が井月を芭蕉と比較していたことが分かる。また、下島が 芥川龍之介の主治医であった縁から『井月の句集』の跋文は芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかった」と井 月を賞賛している。昭和五年(一九三〇年)十月には、下島勲・高津才次郎編集による『井月全集』が出版される。『井月の句集』に掲載された虚子らの「井月 賛」俳句と、芥川の序文はこの全集にも再掲され、井月の評価を高める役割を果たした。本全集には、井月が残した日記も収録されている。
  井上井月に影響を受け心酔した一人に、自由律俳人の種田山頭火が挙げられる。山頭火日記の「昭和五年八月二日」の項に「樹明兄が借して下さった『井月全 集』を読む、よい本だった、今までに読んでゐなければならない本だった、井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい」とある通り、山頭火は井月の句を繰り返 し読み、思慕の情を持つようになる。昭和九年(一九三四年)三月、五十二歳の山頭火は井月の墓参を決意し、山口から伊那谷に向けて東上する。しかし四月に 信州飯田市に入ったところで肺炎を発症し、二週間緊急入院することとなり目前で墓参を諦める。その四年後、昭和十四年(一九三九年)三月三十一日、再び山 口を出立し、五月三日、列車で天竜峡駅に着く。その後、伊那に向かい俳人であり伊那高女の教諭だった前田若水の家に立ち寄り、若水の案内を得てようやく井 月の墓参を果たす。山頭火の「風来居日記」の五月三日の項には、墓参の様子が一〇〇行ほどに渡って記されており、その中に井月の墓を前にして即吟を四句残 している。

井月の墓を前にして
お墓したしくお酒をそゝぐ
お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました
駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね
供えるものとては、野の木瓜の二枝三枝

 日記の中に「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と書き付けているとおり、山頭火は井月の作品と生き方に影響を受けたと考えられ、蕉門の乞食僧俳人であった八十村路通などと合わせて、そこに放浪俳人の系譜を見ることもできる。 
 昭和三十一年(一九五六年)、作家の石川淳が伊那谷を訪ねて井月の取材を行い、当時「文藝春秋」に連載していた『諸国畸人伝』の一篇として「信濃国無宿風来俳人井月」を執筆。
 平成九年(一九九七年)には、俳人の金子兜太氏も伊那谷を訪れ井月を取材し『漂泊の俳人たち― 伊那峡放浪の三十年』を著した。
 漫画家のつげ義春は、映画化もされた漫画作品『無能の人』の最終話である第六話「蒸発」に、井月を詳しく描いている。『蒸発』には次のような句が引用されている。

降るとまで人には見せて花曇り
石菖やいつの世よりの石の肌
何処やらに鶴の声きく霞かな

出典:ウィキペディア(Wikipedia)


←前ページへ戻る

トップへ戻る